20110430

【必見!】田中優さんの講演会

今、日本のみんなが、知るべきことを知ることができていない事実がある。
テレビなどでは報道されない現実。
よくわからない。で終わらせてはいけないことが今、たくさんある。

先日、メキシコの友人と話していた時、こんなやりとりがあった。
私「日本には、55基もの原発はいらない。」
友人「どうしてそう言えるの?自然エネルギーだけで本当にやっていけるの?」

私は、鎌谷ひとみさんの映画などで、なんとなくは、わかっていたものの、正当化させるには、知識が足りず、ちゃんと答えられなかった。こんなことではいけない!!!
「原子力」「放射能」「自然エネルギー」勉強が必要!!!
ということで、10年前PEACEBOATでお話を聞いた田中優さんの講演会を聞きに行かなきゃと思っていたら…Ustreamで2時間半を公開していた!
それだけ、日本の人が知るべきことがあるということなのだ。

耳を傾けてみるべき2時間半!!It's worth it !!ですから!!
ここから、始めてみましょ!!

GWは勉強するぞ!!

20110429

仲間 -ONE HEART-

10年前同じ船に乗っていた仲間の一人、「もっちゃん」が石巻にいるとFBを通して連絡をくれた。
背が高くって、パワフルで、みんなに人気者だった「もっちゃん」。きっと石巻でも大活躍していることだろう。
彼が、石巻にいると聞き、みんな気持ちは一つなのだと感じた。

 「いままで何やってきたかとか、これから何やりたいとかじゃなくて、ただ、この街に光を取り戻したいだけで集まった仲間。」

これは、彼が石巻で一緒にボランティアしている仲間の写真に添えていた言葉だ。

昨日で震災から49日。
私が石巻から帰ってから、世の中の流れがあまり速く動いていないような気がしている…。
今でも被災地には、色んな思いで日本中、いや、世界中から集まってきた人たちが、東日本の何気ない日常を取り戻そうと汗を流している。

私が行ったのは、震災から2週間目だったけれど、地元にいてくすぶっているよりも、
同じ思いで集まった人たちといることが、とても安心できた。

ユイちゃんとタマちゃんと。
私と一緒に現地入りし、倉庫で一緒に働いたタマちゃんとユイちゃんは、2週間滞在を延長し、タマちゃんは、その後、東京に帰ったけれど、すぐにとんぼ返りで、石巻に戻って、今では倉庫のADをしていると連絡が入った。淡々と作業をこなし、常に目の前の一つひとつのことに真剣に、更に、優しさを持ってに取り組んでいく彼女の底知れぬ熱いHEARTにみんなメロメロだ。
そんな熱いHEARTがたくさんいるのだから、完全に、火傷なんです。


倉庫で働いている時、やけに冗談がさえてる人がいた。被災地で活動しているボランティア、震災から2週目のあの時は、周りの緊迫した状況にどうしてもボルテージが下がりがちだった。
でも、だんだんなんだか、そのジョークに笑えてきて、気が抜けた。数日後、なんとなくその人の正体が見えてきた。
ダンプで北九州からかけつけた熱い男!MR. Rock and Roll !!
北九州でRock and Rollしてる船橋さん。
「石巻」~Rock and Roll~に来たのも、まさに運命的。
「いてもたってもいられんくなってのお~。」ってそれで北九州から来ちゃうんだからすごい。
仕事も休んで、同業者たちと来たという。
出発前には、近隣から支援物資を集めて、ダンプでやってきたそうな。
被災地の道なき道を走って、物資を届け。
イイネっ!
なんていうか…人と人、がちんこの「ふれあい」ってヤツをこの人はするんだなあ。
それなんだ。人って。ボランティアだろうがなんだろうが。心があれば、人を笑顔にする手助けができる。 「みんな温いのお~」って言ってました。それは、あなたが温いから!学びました!!

右の写真船橋さんの右隣やっしーも大分県から!!九州男児アツイぜ!

仕事を辞めて、行った人もいる。いろんな人がいる。
「いままで何やってきたかとか、これから何やりたいとかじゃなくて、ただ、この街に光を取り戻したいだけで集まった仲間。」もっちゃんが言うように、一つの目的。シンプルにそれなんだ。

こちら、10年前のPEACEBOAT一緒に乗った兄弟!!平山さんと!!
最終日に1枚。いい働きっぷり!!立派なPEACEBOATスタッフになって…。素晴らしいぜ!
2001年船で周っていた時、その年に大地震があったエルサルバドルでも、一緒に船を降りて、交流やボランティアをしたっけ。



熱いビート石巻でも刻む!?



そして!今夜から、私の地元横須賀の先輩!
EGA☆ちゃん!!
あPB緊急支援ボラで石巻へ出発します!!!
熱き心のMusician。
がんばって!
行ってらっしゃい!
PEACE OUT !!!! 


短期GWのボランティアも募集しています!
GW後は人が減ってしまうかもしれない。
もっと人が必要になるかもしれない!
詳細はこちら!!
ピースボート緊急支援Webサイト
http://www.pb-kyuen.net/

もちろん、ボランティアに行きたくても、行けない人はいる。
そんな人も、被災地を思えば、その気持ちはONE HEART!!
それぞれが、それぞれのできることを。
私は、今、「原子力」について勉強!それも、できることにつながる第一歩だと思ってる!
みなさんも、とりあえず、今月号のCOURRiERはいかが!?

20110425

当たり前のような景色がなくなること。

生まれ育った町。小さな商店街。小さな頃から通る度に、挨拶して歩いた。
学校の行き帰り、挨拶すれば、商店街のみんなが「いってらっしゃい」「おかえりなさい」と挨拶を返してくれる。
大人になってからも、何ら変わらずに挨拶してきた。お互い、細かい話はせずとも成長や変化を挨拶で感じてきた。
昨日、そんな商店街の中でもいつも笑顔で挨拶してくれていた一人、ふとん屋のおじさんが亡くなったと聞いて、父と通夜に出かけた。小さな商店街の端から端までたくさんの参列者。おじさんの笑顔の遺影を見て、涙が溢れた。

たとえ挨拶だけの仲でも、何十年交わしたつながりの中に、私は深い思い出を感じていた。

夕方の寂しげな商店街に参列中、たたずみ色んなことを想った。

当たり前のような景色がなくなること。当たり前のようにそこにいる人がいなくなること。 
ただ通り過ぎていく現実を傍観者のように眺めて生きていくことはしたくない。
変化していくことは自然な流れ。でも、私たちは人間だからこそ、そのひとつの変化に感情があり、悲しんだり、もがいたり、そしてそれが喜びに変わっていったりする。
それをしっかりとどんな形だっていい、とにかく実感しながら、その時、その時を生きていくことが大切なんじゃないか。がむしゃらだっていい、静かに感じていたっていい。
この変化をしっかり受け止めて生きていくこと。

今だからこそ。生きること。命の大切さを伝えていきたい。
こうして今震災から1ヶ月半が過ぎ、私たち、日本の中で、大きな変化が起ころうとしている今、3月11日に起こったことは決して忘れてはならないし、自然な流れとして流れていってはいけない動きがたくさんある。しっかりとそれぞれが考えて、見つめていくべき「現実」がある。
埼玉県新座市にある立教新座高校の校長先生が、学生に送ったメッセージだ。
地震で卒業式が中止になったために、校長先生はメッセージをホームページで送ったそうだ。
是非、読んでほしい。
言葉の一つひとつに心が熱くなり、なんとも言えず、涙が出た。
こんなに力強く、私たちに訴えかける先生の言葉が今、あるのか。
 http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

この先生の言うように、悲しみを希望に変える今を決して忘れてはならない。とそう思う。


「海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。」

これからだ。

20110420

春の味

大家さんがお庭で取れた筍で筍ご飯を作ってくださった。しかも、なんと御重箱に入れて。朝から外の春の景色をながめていただく。季節のものが食べられることはありがたいこと。春である。

宮城、石巻の桜も咲き始めたようだ。自然の息吹を感じて、みんなの笑顔が増えますように。

20110412

石巻で見た光景

言葉がでない光景だった。
「現実」があった。
カメラを向けることができなかった。
同じチームでボランティアをした鴨志田くんの写真。
石巻で見た光景です。
1ヶ月が過ぎた今も尚、この光景は続いていて、
泥出しと瓦礫撤去作業が自衛隊や、たくさんのボランティアによって行われている。
写真見てください。感じてください。想像してください。
この光景が数百キロにも続いていること。


畳で道をつくる。
自衛隊の人も水や、食べ物を配っています。
【ボランティアの活動】


石巻市のボランティアセンターになっている専修大学

朝作業前、ダンサーJUNKOの準備ダンス体操!



配布会。支援物資を配る。
全国、全世界から支援物資が届く倉庫
泥かきにいざ出陣!



泥かき後!やっと横たわれる!?
Pictures by Jyun Kamoshida

先日の第一弾現地ボランティア報告会の模様です。
ピースボート緊急支援Webサイト
「被災地にボランティアが行く意味」

20110411

第一陣現場報告会in東京

本日、東京現地報告会参加してきました!
現地ボランティアに興味がある人、300人ほどの人が聞きに来ていただろうか。
石巻市の現状交え、第一陣が行った時の様子や体験、それからボランティアにこれから行く人への呼びかけをした。

石巻市は人口18万人の都市。市内に12万8千戸あった家屋が、地震、津波の被害で全壊が4万4千、半壊3万4千戸以上。つまり、12万戸の家のうち、約8万戸が全壊もしくは半壊の被害を受けている。

昨日、石巻では、880名ものボランティアが参加し、一斉清掃「まちなかスマイルプロジェクト」が行われた。現在、必要なものは「力」である。泥かきやがれきの撤去にたくさんの人の力を要する。
1000人いても人手が足りていない。

ピースボートでは、現地ボランティアに参加する人は、基本的に自分の衣食住を自分でまかなえる人というのが条件だ。1週間分の食料、水、テント、寝袋を用意して行くことは、とても覚悟のいることかもしれない。そういったことに関して多くの質問が飛び交った。その人それぞれの自分に合ったできることがある。私は、現場に行ったことで、現実を見て、知って、できることをして。一つ一つの支援が現場につながっているということを感じることができた。でも、現実を想像して、被災地ではない自分のいる場所でできることをすることも、とても大切なことだとも考えている。

現場はとても特殊な環境。その中で、いかに、周りと調和を保ちながら、協力しながら被災者のために行動できるかはとても重要になる。

報告会終了後、「私は現地には行けませんが、みなさんの体験を私なりに広げていきたいと思います。」と言ってくれた人がいた。伝えることの大切さを改めて感じた。

最後のピースボート共同代表の吉岡さんの言葉が心に残った。

「泥かきや、がれきの撤去は、常に大きな重機を使って、簡単にできるものではない。
“がれき”も、もとは全て個人の大切なもの。その一つ一つを取り上げて、それをどうしていくか。被災者と共に考えながらやっていかなければならない。
最後の最後まで人と関わりながら、一緒に作業して一緒に復興までやっていきたい。」


人と人との関わり合い、交わりがあって、復興への道がある。
町がただきれいになれば、復興ではない。
たくさんの人の気持ちが自立に向かい、安心して今日を迎えることができるまで…。
まだまだこれからである…。
今日で震災から1ヶ月。14時46分心静かに黙祷を捧げたい…。

PBの緊急支援Webサイトにも報告会のことが載りました。
http://www.pb-kyuen.net/2011/04/12/%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E3%81%AB%E3%83%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%8C%E8%A1%8C%E3%81%8F%E6%84%8F%E5%91%B3/


報告会のあとで。募金箱いっぱいで高田馬場まで移動。
報告会に参加してくれた友人のマヤさん、くぼっちありがとう。

20110407

全国から集まる支援物資の倉庫にて。

石巻市に届く全国、全世界から来る支援物資のための倉庫で仕分けをしていた。
支援物資のニーズは1日単位で変わっていく。

倉庫の中にあったものを大きく分類すると、
・水などの飲料
・食料(野菜、乾物、インスタント、お菓子、調味料)
・キッチン用品(ラップ、アルミホイル、食器類)、ガスコンロ、ボンベ
・ティッシュ、トイレットペーパー
・タオル、バスタオル
・おむつ(大人用、子供用)、おしり拭き、粉ミルク
・生理用品
・衛生用品(マスク、歯ブラシ、綿棒、爪切り、ウェットティッシュ、ハンドクリーム、石鹸類、医薬品)
・衣類(厚手、肌着、下着、靴下)、合羽、靴類
・おもちゃ、乾電池、ラジオ、本、懐中電灯
・毛布、ブランケット、マット
・作業用の道具(一輪車、スコップ、シャベル、ブルーシート、ロープ等)

初め必要だった暖かい毛布や冬服から、数日すると、作業着や、長靴などのニーズが増えた。
下着のニーズも多かったが、足りていなかった。それから子どももそうだが、大人用の靴も足りていなかった。
スリッパで外を歩く人の姿も度々見られた。
町全体で泥だし、がれき撤去などの作業が続いていく。それらに必要なものは、物資として喜ばれると思う。
初めはとにかく被災者の方の手に渡るようにとひたすらあるものをトラックに積み込んでいく作業だったように思う。
でも、だんだんと特定のサイズがないかなど細かいOrderが入るようになってきた。
物資も第二段階に入ったように思えた。

食べ物はいつも必要で、半壊した家屋に住む人たちは、自分たちで料理を始める人たちもいるようだったが、まだパワーラインが通っていないため、ガスコンロおよびボンベなどが必要だが、足りていないのは、現在に続く現状だろう。
避難所生活の人たちに作る炊き出しの材料もここから運ぶ。
実際、石巻市も既に衣類は集めていないそうだ。
他の被災地では、またニーズも違う。
実際、福島県いわき市では、衣類を集めていて、私も一箱ではあるが、送ったところだ。
逆にパワーラインが通っているところもある。
被災地にあったニーズが問われていくだろう。

そして、ニーズの先読みというのも非常に重要だ。
現時点でのニーズを聞いていても…半日後に、その物資は足りていることもある。
数日間かけて支援物資を集めても、集まって送られた頃には、違うものが必要になることもある。
数が少ないために、多くの人に配れないこともある。
1回でトラックに乗せられる分も決まっている。
平等に。というのは難しいこと。
とにかく、一人でも多くの被災者に渡そうと動いていた気がする。
物資が渡らないところ、見えない相手を探り、見えない相手を思う。
他のボランティアが、まだ物資が行き届いていないところを見つけると、早く届けてあげようとみんなで、何が必要か、それを瞬時に考えた。スピードも大事だった。

全国から来る物資には、大きな大きな気持ちが一緒に運ばれてきた。ダンボールにメッセージがあったり、箱を開けると、気持ちのこもった手紙や手作りのものなども、。


大手企業からも、たくさんの支援物資が届いていた。(モンベル、無印良品、UNIQLO、西友など…)
個人で、何度も支援物資を届けに来る人もいた。
蔵王のRock Festivalの人たちも、私がいる間だけでも、5回近く物資を運んでいた。
ニーズが的確で、常に先を読んで、足りないものを運んでくれた。
また、これは改めて書くつもりだが、九州からもたくさんの熱い人たちが支援物資を運び、そしてボランティアとして活躍していた。日本中の力を感じた。みんなが同じ気持ちで同じ場所にいる。そう感じた。

現在PEACE BOATで募集している物資
●炊き出しに使うもの:
調味料、プラスチック容器(食器類)
 
●掃除道具:
デッキブラシ、洗剤、ほうき、ちりとり

●生活用品:
耳かき、爪切り、乳液、綿棒、手鏡、ハンドクリーム、化粧水、歯ブラシ、歯磨き粉
洗顔料、ボディータオル、ウェットティッシュ、男性用ズボン、女性用下着類

●衛生用品:
紙おむつ(子ども用・大人用)、生理用品 
 
ピースボート緊急支援ホームページご覧ください。


石巻市の専修大学の運動場を借りて、ボランティアはベースキャンプをはっている。
私たちがいた1週間でテントの数も増え、本当に大きなボランティア村となった。
もちろん私たちもパワーラインがない中の生活。
1週間風呂に入らずに、テント生活。
水の大切さ、明かり、太陽のありがたさ、そして、星の美しさ…を感じた。


同じボランティアとして出会ったイギリス人のJonさん。
彼の言葉が忘れられない。
「人間、本来は自分の体と心といたってシンプルなもの。本来はそこまで物って必要ない。ここから、また人間の大事なものを見つけて、日本中に、そして世界に広げていける。」
うん!きっと!!

伝えていくこともとても大切。それも、私にできること。現場報告会に参加してきます。
これから現地にボランティアに行く人は是非ご参加ください。まだまだボランティアは必要です!
今後は主に泥だし、がれき撤去の面で活躍できる人!!是非!行ってほしい!!
健康であれば、力になれる。

4月10日(日)、東北関東大震災緊急支援、現場報告会を開催します。

詳細クリック↑(アレ!?2番目写真バカ面お許しください;;)

 

第一陣で一緒に被災地に渡った旅人、自由人の高橋歩さんや、俳優の小橋賢児さんのチームの映像です。私の見てきた風景や、現地の人の姿、そして彼ら、チームの活動が映し出されています。
是非見てください!
小橋賢児さんのBlogにも感じたことつづられています。
http://www.kenji-kohashi.com/JP/Blog/entori/2011/4/3_wei_laiha_putachino_shounikakatteiru.html



20110403

石巻市から戻りました。



 宮城県石巻市から戻りました。
ピースボート緊急支援ボランティアとして1週間。
いまだ、いろいろな思いが混ざり合い、上手く言葉にできませんが、少し書きます。

初日沿岸部の壊滅状態を目の当たりにした時は、言葉がなかった。
自然の脅威に対しての私たち人間の無力さをこれでもかというほど見せられた。
車も家も天地ぐちゃぐちゃになり、そこら中が、がれきで埋め尽くされた無力感が漂う町がそこにあった。
この状態が沿岸部、数百kmに渡り続いているとは本当に信じがたい。
でも、それは、現実。

テレビではわからない、目で見て、肌で感じて、あの砂埃と、いろんな臭いのあの中に現実があった。
そこに生活があって、無くなったものを取り戻そうとしている姿があった。
何とかしなければと誰もが立ち上がろうとしていた。生活に必要なものすべてを流されて、失った人も何とかはい上がろうとしていた。
起こってしまったものは仕方がない。やるしかないのだと。たくましく前進し始めていた。
避難所に残るしかない人々、半壊した家で生活を取り戻そうとしている人々。今の暮らしが長期戦になるということを覚悟の上で気持ちの一つひとつをつなぎ合わせ、衣食住、日常を手さぐりでとにかく一つひとつを復活させようとしている日々がそこにあった。
「現実」だった。

避難所の炊き出し、全国から来る支援物資の仕分け、必要な物資の無料配布バザー、
手が回らない小さな集落を捜し、支援物資を届ける、炊き出しを行う。
学校や、半壊した家屋の泥のかき出しや、がれき撤去。
PEACEBOATのボランティアスタッフ、他たくさんの団体、個人が全国から集まって必要なこと、できることを日々行っている。

PEACEBOAT緊急支援ボランティアは私たち第一陣が戻り、第二陣が活動中の現在、東京のPEACEBOATでは、1000人以上の人がボランティアの登録をしていて、現地に1週間ごとに出向いていく。
全国、全世界から本当にいろんな人がやってきては、支援物資を届けに来たり、ボランティアをしに来たり。みんながこの時に、同じ場所に一つの目的で、同じ気持ちで集まった。仲間だった。
驚くほどの全国からのPower。物資も人も、日本列島各地から、飛んできて集まっていた。

私も色んなことを経験させてもらいました。私がしていたのは主に、全国から集まった支援物資の仕分け作業。必要なもの、ニーズが日々変わっていく。現地の動きが、物資の動きから見えた。
必要な物資をコーディネートして仲間に渡し、仲間が届けて、生の声を聞いて帰ってくる。そして、次のコーディネートに生かしていく。自分のしていることは、微力だが、信頼するチームが思いをつないでいるのだと思えた。
他、バザー、物資の配布、泥かきなどさせてもらった。現場に行くたびに、言葉にならない思いが溢れてくるのをぐっとこらえた。

あの現実を見て、
あの経験を学びとして、ここから日本を見て、考えていきたい。
まだまだ続くこの日本の挑戦に、これからも自分の出来ることを一つ、そしてまた一つと模索し、学びとチャレンジを続けながら、生きていきたいと思う。

2004年、ミャンマーの奥地を医師団と訪ねた時の仲間の言葉を思い出した。
「ただいっしょに生きていきたい。」
被災地のために…なんて大きなことは言えないし、私個人では何もできない。
ただ、人の苦しみや、悲しみとも共に生きていける生き方をしたいのだ。

過去Blog「Love and Hugs」ミャンマーで感じたこと。
http://gogoerie.blogspot.com/2007/04/pbshare-juan-mann-free-hugs-campaign.html


小学校の校庭


全国から集まる支援物資