声帯を治療して、1週間以上話すことのできない生活をしている。
たくさんの発見と学びがあった。
自分がどれだけ声を使って人とコミュニケーションを取っていたかということ。
そして、その声を使ってのコミュニケーションというもので自分を表現したり、人を笑顔にすることができていたのか、今日までの自分というアイデンティティにつながっていたのかということを知ることができた。大げさかもしれないけれど、それだけ、私にとって「声」というものが大切なコミュニケーションツールだったのだ。
コミュニケーションは主に筆談で行っていたけれど、目の悪いお年寄りもいる。ほんのちょっとした会話や、初対面の人との会話の中で、紙とペンを取り出すわけにもいかない時だってある。
相手に気を遣うことも難しい。
人の足を踏んで「ごめんなさい」と謝ることもできない。
買い物の時、誰かに何かをしてもらった時、「ありがとう」と言うこともできない。
一緒に住んでいる友人が「ただいま」と言っても「おかえり」と返すこともできない。
好きな歌をくちずさむこともできない。
大きな声で笑うこともできない。
必要なその瞬間に、自分の気持ちを伝えることもできない。
とても、もどかしい。どんどん周りの人が遠ざかっていく気さえする。
声が出せないこと以外はいつもとなんら変わらないのだから、周りの人にもなんだか嘘くさくて申し訳なくなる。病人らしからぬ、病人が、静養らしからぬ静養をしているのだ。
一人になってみようと、山に登ってみても、頂上でおじいさんに話しかけれられる。
山を違う道から下りていったそのおじいさんに家に帰る途中でまたばったり。
バス停でバスを待っていると、こんな時に限って色々な人が話しかけてくる。
「あ!あれ!?もしかして、バレエの先生じゃなあい!?」
バレエの先生に間違えられるなんて、一生に一度あるか、ないかの話だろう。
「今何時だ?」「次のバスは何分だ。」時計を見せたところで、私の時計が見えないおじいさん。
人間一人では生きていけないのだ。
きれいな景色を見たら、誰かと共感したいと思うし、気分がいい日は、そんな気分を誰かと分かち合いたいと思う。
誰もいないところでは、誰かがいると安心もする。
不安な時は、誰かに何かを確認したり、何かを教えてもらいたかったりする。
どんな時も人は、誰かも求めている。
どんな時も相手がいるから感じ得る何かがあるのだ。
こんな言葉に出会った。
私はこうなってみて、日常、当たり前のように使っていた「声」というものに、感謝した。
言葉では伝えきれないこともある。
言葉で人を傷つけることも、言葉で人にプレッシャーを与えることもある。
言葉にしてしまうと嘘っぽく聞こえることもある。
思いが言葉よりも強くて、言葉にしてしまうと消えてなくなってしまいそうになるものもある。
言葉は心を映していく。
自分を知ることは、言葉を知り、人を知っていくことなのかもしれない。
言葉が使えるのなら、大切に使いたい。
心を持って丁寧に使いたい。
それは、文字でも声でも同じこと。
声に、健康でいられることに、自分が今、存在していることに、
そしてそれを支えてくれている人たちに。感謝。
こんな時だからこそ心の中で声を大にして。
「ありがとう!」
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